無料で活用! 天山広吉まとめ

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天山広吉をマスターしたい人が読むべきエントリー30選

この前はテレビ東京で人気の番組

今夜もドル箱V

の撮影でございました!

アメリカザリガニのお二人と(^-^)/☆

もう一組は、プロレス界で有名すぎる
天山広吉さん、真壁刀義さん
のお二人とご一緒させてもらいました
\(^o^)/

すっごく楽しかったー!!
サンドウィッチマンのお二人はいつも本当に優しいです(^-^)!
放送は、

12月2日(火)   25:00~

12月9日(火)   25:00~

ですので、宜しくお願いします

さらに今週はギガウォーズの特番収録があって、その後に忘年会でした!
色々と面白すぎたーヘ(゚∀゚*)ノ
写メ載せたいけど、沢山ありすぎてパンクしそうだから今度のせます(^-^)/!


そして、今日からポコぱちが配信されておりますっ!!

ゲストの中武一日二膳さんと、12月から全国導入される009シリーズ最新作


CR009 RE:CYBORG  

を仲良く打っております(^-^)/




果たして、継続率約90%の加速RUSHに入れる事ができるのかっ?!

にしても最近本当に寒いっ!!

UNIQLOのヒートテックエクストラウォームインナーを買ってみたよ☆
まだ着てないけど楽しみー!

汗かかないといいな(^-^)/

天山広吉がダメな理由ワースト7

俺達のプロレスラーDX
第47回 時代を超越する「痛みが伝わるプロレス」の秀才が信じた男道/石井智宏

「昭和プロレスの体現者」

武骨で魂の真っ向勝負を信条とする石井智宏は近年このように称されることが多い。
しかし、そもそも昭和プロレスとは何なのだろう?
ゴツゴツした戦いをすればそれは昭和プロレスなのだろうか?

ネットでプロレス考古学を探究する「プロレス桃源郷へのいざない」というホームページを運営する小泉悦次氏は昭和プロレスについてこう評している。

「昭和プロレス」とは何か。
字づら通りの意味ならば、1926年の改元から1989年の昭和天皇崩御までに行われたプロレスということになる。しかし、力道山がデビューした51年のトリイ・オアシス・シュライナーズ・クラブの興行以前、戦前に行われた興行は「昭和プロレス」から暗黙の内に除かれている。
いや暗黙ではない。戦前に行われた興行というのは、1928年、37年のものである。これら興行はあまり知られていないし、もちろん、「昭和」に行われたものとして意識されてもいない。まあ、力道山以降との連続性がなく、元号が昭和である時期に行われたということだけなので、それはそれでいい。
「昭和プロレス」とは力道山以降のプロレスを指す、として差し支えはないだろう。では、いつまでを「昭和プロレス」とすべきか。
UWFは1984年に旗揚げされ翌年崩壊した。その後、佐山聡を除くメンバーは「軍団」として新日本プロレスのリングに上がり、1988年5月に再び旗揚げした。一般に第2次UWFと呼ばれるこの団体は、1990年(平成2年)まで続き、その後のプロレス史にも大きな影響を与えた。第2次UWFは昭和・平成にまたがることと、ショー的要素の排除を売り物としたスタイルから「昭和プロレス」から除外されていいんじゃないか、と思う。
よって時期的には、第2次UWFの旗揚げ直前までを「昭和プロレス」期とする。その特徴は「外人のいるプロレス」である。
「昭和プロレスは面白かった」の声が多い。これは北米やヨーロッパ、メキシコなどから来日した個性豊かな強豪外人レスラーを力道山、馬場、猪木といった日本側エースが迎え撃つという構図が受け入れられていたということである。
 昭和プロレス論1)

これに基づいて考察すると石井智宏が昭和プロレスの体現者という表現は的外れな部分があるということになる。
では石井智宏とは何者なのか?
今回は、プロレスラー・石井智宏の本質について書かせていただきたい。

石井智宏は1975年北海道に生まれた。
学生時代は野球に熱中していたため、プロレス入りするまで格闘技歴はなかった。

長州力VS天龍源一郎をテレビで観て、プロレスラーになることを決意した石井は、1996年11月に天龍源一郎率いるWARでプロレスデビューを果たす。
若手時代は高田延彦似の新人と言われたことがあった。

1998年、師匠・天龍が新日本プロレスに参戦するようになると、石井は付き人として帯同した。
そこで天龍から口添えもあり、新日本の合同練習に参加することになった。

永田裕志、ケンドー・カシン(石澤常光)大谷晋二郎、高岩竜一といった若手の猛者達に揉まれた。
カシンにはスパーリングで散々極められた。
練習についていくのも必死だった。

ちなみに当時練習生だった柴田勝頼は、新日本の合同練習についていけていなかった石井の印象が強いという。

1999年、石井は心機一転、天龍のもとを離れてフリーに転身する。
自分の力でさまざまなところで試したくなったからだ。
各インディー団体を彷徨いながら、生き抜くために転戦する石井。

そこで出会ったのがレスリングマスター・ディック東郷。
彼が率いるFECというヒールユニットに参加することなった。
外道、折原昌夫、日高郁人などプロレスの職人達と行動を共にしたのは、石井の財産となる。

しかし、石井はどのリングに上がったも己が信じた真っ向勝負を貫いた。
「インディーではそれは必要はない」という声があろうとも…

2002年、新日本を退団した長州力の練習パートナーとしてフリーの石井に白羽の矢が立った。
サイパン合宿に帯同した石井は長州に弟子入りする。

長州にはこのように言われた。

「お前はプロレスラーとしてのプライドを持っているのか?プロレスは闘いだよ。闘いがなければプロレスじゃないんだ。」

プロレス入りしたWAR時代に天龍から教わったこと、それは…

「どこへ行ってもビビッているやつはダメなんだ。絶対に相手の技をすかすな!」

長州力と天龍源一郎。
少年時代に憧れたプロレスラーの教えが男の星座として繋がり、彼は真の意味でプロレスラーになったのかもしれない。

長州が旗揚げしたWJプロレスはマスコミから「時代錯誤」と評されるほど伝説のズンドコ団体となり、わずか1年弱した持たなかった。
しかし、石井のファイトスタイルは変わることはなかった。

2004年、石井は長州らとリキプロを立ち上げ、新日本やゼロワンなどあらゆる団体に参戦するようになった。

「長州力にずっとついていく」

一本気な石井はどこまでも長州の隣にいた。

天龍の付き人時代に眺めていた新日本にはデビューして8年で辿り着いた。
当時の新日本は暗黒期真っ只中。
しかし、そんな新日本を守るべく奮闘している守護神がいた。

ミスターIWGP・永田裕志。

天龍の付き人時代にけいこをつけてくれた相手だ。
永田との対戦で石井は弾けた。
地方大会でシングルで対戦した二人はとことんシバキあった。
互いに認め合えたからこそ受け止め、思いっきり攻めた。

後楽園大会では永田のキックが石井の口元を直撃し、大流血してしまうハプニングもあったが、石井は根性で永田に食らいついていった。

ビッグマッチの前座で行われたシングルでは大会のベストバウトともいえる激闘を繰り広げた。

石井は新日本での立ち位置を掴み取る。
矢野通、越中詩郎、真壁刀義、天山広吉とG・B・Hというヒールユニットを結成し、新日本を荒らしまくった。
石井はそこでバイプレイヤーとして仕事ぶりを発揮する。
真っ向勝負を信条としている石井だが、あらゆる団体にあがることで幅の広さを身につけるようになっていた。

2009年、真壁を除いた旧G・B・H勢と中邑真輔と加えたCHAOSというヒールユニットを結成した。
そこで石井は四代目タイガーマスク、井上亘らとの抗争で、相手を引き上げる技量が評価されるようになる。

新日本で初めてのタイトルマッチは2012年5月の大阪大会。
後藤洋央紀が保持するIWGPインターコンチネンタル王座に挑戦した。
石井と後藤は毎回、激闘を繰り広げるライバル関係。
二人は857人の観衆を熱狂させた。
試合には敗れたが、石井の株は上昇した。

試合後、石井はこのように語った。

「いいか、必ずよ、必ず一つ一つ、リベンジ果たしてやるからよ。いいか、忘れんじゃねぇぞ! 後藤にじゃねぇぞ。後藤にリベンジじゃねぇよ。プロレス界にだ。プロレス界にリベンジしてやるよ、これからよ!」

プロレス界へのリベンジ。
これは石井の本音なのかもしれない。
170cm 102kgの豆タンクのような肉体で辛酸をなめた日々。
叩き上げでつまずき続けたプロレス人生。
その果てにメジャー団体に漂流し、信じるプロレス道を邁進し、全てを逆転させる。
それが石井が内に秘めた野望なのかもしれない。

2013年2月、石井のチャンスが訪れた。
ゼロワンの田中将斗が保持するNEVER無差別級王座に挑戦することになった。
会場は後楽園ホールでメインイベント。
新日本出身ではない、インディー団体で這い上がってきた誇り高き漢の死闘に、後楽園が震えた。

それは田中将斗と石井智宏にしかできないプロレスだった。

「IWGPへの登竜門」という位置づけだったNEVER王座の価値を上げて見せた。
またも試合に敗れた石井。
しかし、勝者・田中は石井に駆け寄り、抱き合って称えた。
試合後、石井はこう語る。

「デビューしてよ、試合後に『この言葉は絶対に使わねぇ!』と思ってたけどよ、今日はよ、その言葉しか出てこない。田中さんとの試合『キツイ!シンドい!』。シンドい! だけどよ、これがプロレスの本来あるべき姿じゃないの? 俺はそう思うよ。今日は確信したよ。やっぱりよ、闘いがなきゃプロレスじゃねぇんだ。俺の一番嫌いな言葉“あれもプロレス、これもプロレス”。クソ喰らえだよ! ふざけんなよ! 俺は絶対認めない。そこに“闘い”がなきゃ、プロレスじゃねぇんだよ。ま、今日はリベンジ失敗したけど、どうってことねぇよ。俺のプロレス人生は、最初から上手くいってねぇから、こんなの慣れっこなんだよ。これからよ、1歩1歩、必ず階段昇ってやるからよ! それと今日の試合、『NEVER』のタイトル戦だけどよ、これは俺と田中さんのよ、新日本への挑戦状だよ。覚えとけコラ!」

2013年、悲願のG1CLIMAXに初出場を果たし、エース棚橋弘至を破ってみせた。

棚橋を破った石井は試合後、吠えた。

「俺、言ってんだろ『ベルト見てる』って。ヘビーの。もっと言ってやるわ。俺に“身長があと10センチあったら”とかよく言われるけどよ、そんなのよ、俺が引退してから言えって! 俺は進行形だぞ?! ベルト巻けなかった時に、そういう風に言えよ。(上を指して)俺は見てんだ、いつでも」

石井はどこまでも気高かった。 
 
しかし、この頃から石井の体調は激闘に続く激闘で、肉体はボロボロだった。

右肘は神経にしびれが出て、90度以上に曲げることはできない。
首は頸椎の3番と4番が詰まっているため、ドクターストップがかかるほどの重症。
左肩のテーピングは亜脱臼以後、取れることはない。
練習にも支障が出てしまい、ベンチプレスで60kgをあげるのが精いっぱいである。

周囲からは「このスタイルでは長くない」「体もたないよ」と言われる。

しかし、石井は語る。

「俺は練習を2日休んだら不安になるし、5日も試合がなかったら、どうしようもなく不安になる。」

「このスタイルで短いレスラー人生が終わっても何の後悔もない」

このコンディションの悪さが皮肉なことに石井の凄さと本質を知らしめることになる。
私は考察する。

石井智宏は天龍源一郎や川田利明が掲げたスタイル「痛みが伝わるプロレス」の体現者じゃないだろうか。

エルボーを顎にもらうと、前のめりに倒れる。
相手に投げられたときに、首にしびれが走り、痛みで転げまわる。
ふらついたときに、力なく崩れる。
相手の打撃をもらいながらも前に出るだけで意地という反撃をする。
ラリアットを放つときは、全身全霊を込めて打ち込む。
パワーボムは上げられるだけ高々と上げて叩きつける。
雪崩式ブレーンバスターは滞空時間を長くすることでより強烈な大技に仕上げる。
流れを変える延髄斬りはパチーンと音とともに相手をふらつかせる。
そして、十八番の垂直落下式ブレーンバスターにはこれ以上ないくらいの説得力で繰り出しスリーカウントを奪う。

すべての攻撃も受けもリアリティーがあるため、観衆にダイレクトに痛みを伝わるのだ。

それが観衆の心を打つのである。

しかも試合に関しては、長州や天龍より、川田利明に極めて近い。
試合におけるテンポや組み立て、感情の出し方、痛みの伝え方、非情さなどあらゆる部分で、石井は川田に似ている。

不器用なイメージが強い川田はあの小川直也相手でも名勝負を展開できるほどのプロレスの天才。
そして、石井も2013年に初出場したG1で証明したように引き出しが多く、名勝負を数多く生み出すプロレスラー。
天才というより、プロレスについて誰よりも貪欲で勉強家、言わば秀才という表現が正しいのかもしれない。
2014年11月に行われた大阪での後藤洋央紀戦は大会ベストバウトと呼ばれるほどの激闘だった。
しかし、石井は細かい技の失敗があったため、反省しきりだったという。
この男、実はプロレスにおいては完璧主義者なのかもしれない。

2014年2月、石井は内藤哲也を破り、NEVER無差別級王座を獲得する。
試合後、石井はこう語る。

「新日本でベルト……ハッキリ言って長かったよな? 新日本に来て8年……、対新日本を掲げて16年だよ。長い! 長かった、正直。……だけどよ、テメーの信じる道を突き進んだら、たどり着いたっていう、それだけだよ。なんら、驚くことはない。何年時間がかかろうが、俺はその都度、目標にしてきたことは必ずたどり着いてるから。テメー自身が、テメー自身を信じてるから」

2014年プロレス大賞殊勲賞を獲得した石井智宏というプロレスラーの評価は、レスラー仲間や関係者も高い。

「石井選手に対しては尊敬の気持ちがある」(棚橋 弘至)

「G1でいちばんスゲェ―試合してたのは石井だろ」(真壁刀義)

「不器用だけどガンガンいくところに、なんか哀愁じゃあないけど、お客が応援したくなる雰囲気があるんだよね」(天龍源一郎)

「智宏の評価は聞くよね、それは正直言って嬉しい」(長州力)

中でも長年、パートナーとして組んでいる盟友・中邑真輔の石井に対する評価は極めて高い。

「組み始めてから石井智宏も進化してるわけですよ。『変わってない』って言い張りつつも、試合の組み立てとか、ここ一番の技へのもっていきかたとか、タイミングをちょっとずつ変えたり、順番を変えたり、とかは自分が一番近くで見てきてる。相当進化してるわけです。で、その石井さんのテンプレートというか、その組み立てをいろんな人がパクってるのも見てきてる。自分の技にしても技自体はパクってないけど、技のタイミング、リズムの取り方とかをパクってるヤツとか、ガッツリ見てるわけです。」

「石井さんの試合はとにかく『丁寧』ですよ。『丁寧かつ繊細』ですから。」

石井智宏というプロレスラーを考えていくうちにわかったことがある。
それはこの男は時代という概念で括ることはできないということである。

「昭和」や「平成」といった時代を超越した真っ向勝負、あらゆるリングを渡り歩き培ってきた引き出しを混合したファイトスタイルはもはや石井智宏プロレスという表現が正しいのかもしれない。
これからも彼は己が信じた男道を貫いていく。

最後にご紹介したいある方の名言がある。
日本一の斬られ役、5万回斬られた男と呼ばれる名脇役・福本清三さんの言葉だ。
福本さんは 50年以上に渡り、時代劇・現代劇を問わず「斬られ役・殺され役」を演じてきた。
そんな福本さんが初主演の「太秦ライムライト」でファンタジア国際映画祭で日本人初の主演男優賞に選ばれた。
彼はこのような名言を残している。

「頑張っていれば、 必ずどこかで誰かが見ていてくれている。」

まるでこの言葉は石井智宏が歩んだ人生を表現しているかのようである。


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フタヒトマルマル。
中崎翔太選手の愛称
「ザキ」
「どん」(容姿が彼と同郷の西郷隆盛(西郷どん)に似ているから)
「天山」(容姿とマウンド上の形相がプロレスラー天山広吉選手に似ているから)
「ピート」(米アニメ「ファミリー・ガイ」のピーター・グリフィンに似ているから)

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